3分でわかる!グルジアと南オセチア戦争

 

コーカサス、グルジアについては、詳しくはこちらの過去ブログをごらんください。

 

まずは、南オセチア自治州について説明しておこう。

グルジア国内には、オセット人と言うイラン系の少数民族がすむ、南オセチア自治州という地域がある。長年、グルジアからの独立と、分断されていた北オセチアとの併合を求めていた。

もともと、オセット人の国だったオセチアは、1920年代、ロシア革命のボリシェビキによって

南北オセチアに分割され、ソ連に吸収された。

が、もともとロシア人とオセット人の仲は伝統的に友好であったため、

グルジアに住んでいたオセット人たちのために、わざわざ「南オセチア自治州」をボリシェビキは創設したのである。

 

以降、北オセチアは、北オセチア共和国としてロシアを構成する連邦国の一つとなり、

南オセチアはグルジアの自治州となった。


時は流れ、ソ連末期。

 

共産主義が世界的に衰退を見せ、東欧革命の余波が流れ出すようになると、グルジア国内で、ソ連からの分離独立の声がいっせいに高まりだした。

90年ソ連が崩壊すると、グルジアは正式に独立を果たした

しかしそれと同時に、今度はグルジア国内の南オセチア自治州のオセット人たちも、グルジアからの独立を求めだしたのである。

勝手なもので、自分たちはソ連からの独立を求めているにもかかわらず、南オセチア自治州はそれはそれとして失いたくないグルジアであった。

オセット人の独立運動を認めないグルジアに対し、当然のごとく、オセット人は猛反発。両者は激しく衝突した。


そしてとうとう1991年。

オセット人は武装蜂起。オセット人とグルジア人との戦争が始まった。

これを第一次南オセチア戦争という。

当時のオセット人の人口は7万人。それに対し、グルジア人は400万人。

しかし、この圧倒的人口差を見せても、グルジアは

オセット人に負けてしまったのである。

オセット側の勝因。それは裏で、ロシア政府側の圧倒的な戦略的支援とバックアップがあってこそだった。

(なぜオセット人に対して、ロシア人がやさしいかは。こちらの過去漫画をご覧下さい。)

こうして、92年には、南オセチアはグルジアから事実上の独立を果たし、グルジアからの実効支配の及ばない地域を作り上げたのだった。(軍事支援をしたロシア軍はちゃっかり南オセチア内に駐留するようになった。)

 


時は流れ、2004年。

グルジアの新たな大統領として、

ミヘイル・サアカシビリが就任。

サアカシビリは2003年のバラ革命を主導し、米国留学の経験もあり、グルジアのNATO加盟実現を目指し、アメリカの軍事支援の下で、国防費を増額させて、年々装備の拡充を図っていった。

なぜアメリカがグルジアに軍事支援をしたかについては、こちらの記事をご覧ください。

これに対し、グルジア側の、NATO加盟へと向かう反露対策に

プーチン政権のロシアは警戒感を抱き始めだした。手始めにロシアは

CIS(独立国家共同体:ソ連から独立した国々の共同体)

の中で、グルジアだけにビザ制度を課しグルジアの主な輸出品であるワインに禁輸処置をもうけるなど、露骨な圧力をかけ始めた。

両国の緊張は高まるばかりだった。

 

そして運命の2008年。

サアカシビリ大統領は、アメリカとの関係を強化するとともに、ロシア軍の駐留する地域を奪還することを豪語した。

四月。南オセチア上空で、ロシア軍機とみられる戦闘機が、グルジアの無人偵察機を撃墜してしまった。

これに報復する形で、

グルジア側は駐留するロシア兵士たちを拘束した。

怒りに火が付いたロシア(当時、メドベージェフが大統領。プーチンが首相のタンデム政権時)は

グルジアとの国境地帯で8千人規模の軍事演習を強行。戦闘機の領空侵犯など、グルジアへの威嚇は日に日に悪化していくばかり。国境付近の村々や難民避難所などではロシア軍によるいやがらせが続いた。

そしてとうとう悲劇は起こった。2008年8月。

世界が北京オリンピックで盛り上がっているその裏で、

 

第二次南オセチア戦争は唐突に勃発したのだった。

8月7日。南オセチアとロシアの国境付近で、

「大量のロシア軍車両がトンネルを通過した。」

という報告を国境警備兵は受けた。

この傍受内容を「ロシア軍がグルジアに侵攻した」と断定し、

その20時間後、

ロシア軍の駐留する南オセチアの首都ツヒンヴァリへと攻撃を踏み切った。

しかし、このグルジアの攻撃に対して、ロシアは激怒。

 

総兵力約7万人。戦車6百両。戦闘機120機。かつてのチェチェン戦争で活躍した精鋭部隊もそろえ、8月7日から15日までのわずかな日数でグルジア軍を殲滅、敗戦に追い込んだのである。

まずはツヒンバリに展開したグルジア軍を撃退し、さらに南下してグルジア領に侵攻。陸軍基地のあるゴリ(スターリンの祖国)を制圧。

郊外にある空軍基地や鉄道、道路、インフラを空爆、破壊していった。罪なき民間人も、年寄り、子供も関係なく、無差別に空爆に巻き込まれ死んでいった。

 

 

 

 

8月10日。欧州連合とアメリカ合衆国は、停戦の調停に乗り出そうとした[。ところがロシアは、先にグルジアが南オセチアから完全撤退して今後南オセチアに武力を用いないことを宣誓しなければ和平交渉に応じないと強硬な姿勢を崩さなかった。

結果的に、フランスが取り持ち、サアカシビリは停戦に合意。

戦争は終結した。


ロシアはこの戦争の勝利に、南オセチアを独立国家として承認。

(しかし、独立を承認しておきながら、着々とロシアによる南オセチアのロシア化政策は進んでいるのだった。この企みを見抜き、世界の多くはいまだ、南オセチアを独立国として承認していない。)

 

なお、サアカシビリはというと・・

 

2008年11月。アメリカでは民主党政権によって

バラク・オバマ大統領が誕生した。

これまでグルジアに莫大な支援を与えてきたのは、子ブッシュ率いる共和党だった。

当然、コーカサスの小国のグルジアを支援する理由など民主党側にはなく、サアカシビリはアメリカにあっけなく見捨てられたのである。

また、欧州は欧州で、

 

石油、天然ガス、原子力といったエネルギー分野でロシアとの協力を進めており、これ以上のロシアとの無用な衝突を避けたいという本音があった。

結果、薄情にも、グルジアのNATO加盟は時期尚早、という事で先送りしてしまった。

ロシアの絶え間ない圧力と、NATOの態度の変化によってグルジアの世論も急速に変わり始めた。

グルジア議会は、今回の戦争に至った原因を調査するための特別委員会を設置。軍高官や内務省幹部を次々と議会に呼び出し、説明を求めた。

サアカシビリも弁明に追われ、戦争責任を追及されることとなり、

「先に軍事行動を開始したのはロシア側だ」というこれまでの主張を翻し、同年11月にグルジア側の方が先に軍事行動を開始していたことをとうとう認めた。

 

 

揺れる大国プーチンのロシア より引用

 

 

 

 

 

 

 

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