3分でわかる!ルーマニア革命とチャウシェスク

ルーマニアとは

場所は東ヨーロッパに属し、黒海に面しつつ、地中海と大西洋への入り口にして、ヨーロッパで12番目に大きな国でもある。かの

「吸血鬼ドラキュラ」

モデルとなった国王ヴラド3世(15世紀のルーマニアに実在した人物)

の国でもある。

 

第二次世界大戦ではヒトラーと結んで枢軸国として参戦したが、対ソ戦の最前線にたたされたことにより、大きな損害を被った挙句、ソ連の占領支配下になった。

そうして、1947年

ソ連の衛星圏、東ヨーロッパ社会主義圏の構成国として

ルーマニア人民共和国の樹立を宣言した。


時は流れ、東西冷戦の1965年

ルーマニア第一書記長に

ニコラエ・チャウシェスクが選任された。

(後、74年に大統領制を採用しルーマニア初代大統領となる)

ルーマニはもともと世界でも有数の農業大国だった。

そこで、豊かな資源と農業生産を背景に、東側にありながら中ソ対立の時代に中国と友好関係を保ち、イスラエルと親交を深め、チェコスロバキアの改革・プラハの春を支持、西側およびアメリカとの友好関係を築きあげるなど、

ソ連と一線を画す 独自外交を展開していったのだ。


しかしその一方で、秘密警察を全国に張り巡らせ、反体制運動を弾圧するとともに、エレナ夫人や息子を登用し、チャウシェスク一族の権力集中を強め、親族支配体制を作り上げた。

地獄の始まりは1970年代からだ。

西側から借金をして、無理のある重工業政策を始めたのだった。ところが

国内原油の生産が激減し、さらに石油ショックなどの影響で、輸入原油の価格が高騰し、しかも国際競争力のない石油化学工業製品では、積極的に輸出して外貨を獲得することもできないため貿易収支が悪化してしまい、そのうち対外債務が急激に増えることになった。

結果、輸出国から輸入国へと転落し、多額の借金だけが残されてしまったのだ。

失敗を取り戻すことに必死になったチャウシェスクは、国民の食い扶持を後回しにして、西側の借金返済を最優先する事しか頭になくなっていった。

国民に必要なエネルギーや食品すべてを輸出に回すようになったのだ。

80年代にはさらにひどくなった。国民は最低限の生活すらできないほどに食料は不足した。国民を飢えさせても食料品を輸出するという

「飢餓輸出」

が続けられた。対外債務減らしのための外貨を手っ取り早い方法だった。

 

一か月に国民が口にできるのは、平均して、肉が1キロ(犬も食べないような脂身か骨付き肉。豚の足だけなど。肉屋の従業員は肉を隠し持っているが、袖の下をやらないとそれ以上売ってくれない)、卵15個、牛乳1リットル。

砂糖や食用油もろくに手に入らず、

オレンジ、コーヒー、チョコレート、などの嗜好品は大半の国民はお目にかかる事さえできなかった。

そのうえ、電気やガスの使用量も制限されることとなった。

ルーマニアの冬は、厳しい。日中でも零下20度まで下がることも珍しくない。

なのに、制限を超すと、暖房も使えなくなり、料理も出来なければ、やかんでお湯を沸かすこともシャワーをあびることもままならなくなるのだ。

もちろん外貨があれば、外に行って何でも買えるのだが、

外貨を持っていることが治安警察に発覚すれば、すぐに逮捕だ。


悪政はそれだけではない。

チャウシェスクは子供が好きだ。

国民に中絶を禁止し、

子供をたくさん産むことを強制したのだ。

5人以上子供を産んだ女性は公的に優遇され、10人以上の子を持つ女性は「英雄の母」の称号を与えるとのこと。

しかし国民にとってこれほどつらいことはない。将来の展望もなく子供を産むのは勇気のいることだったし、健康状態が悪いまま出産し、多くの母親が命を落としていった。

望まれないまま生まれた子供たちは孤児院に引き取られていったが、その孤児たちは

政権の商売道具として外国へ輸出されていったのだ。

産めよ増やせよと言う合言葉をスローガンに、職場単位で妊娠をチェックされていて、本人が出産を望まない場合は、厳しい罰をうけさせられた。

(そうして、自らヤミで堕胎をする妊婦が増えていった。)

その後、金銭的に育てられない親による育児放棄や虐待により、ストリートチルドレンが増え、

さらに孤児院の子供は十分な栄養も与えられず病気になり死なせた場合には、孤児院の職員の給与が減らされるからという理由で、勝手に大人の血液を輸血されHIVに感染する子供が増加していったのだ。

これが世にいう

「チャウシェスクの落とし子」と呼ばれる子供たちである。


ちなみに、ビートたけしの持ちネタである

コマネチのモデルである、

ナディア・コマネチ(モントリーオル五輪優勝の女子体操選手)は、

あわれ、

ニク・チャウシェスク(チャウシェスク次男)

の愛人に強制的に強いられたのだが、

たえきれず、89年にハンガリーに脱出、アメリカへと亡命した。


 

87年ゴルバチョフがルーマニアを訪問するも、

ソ連の提唱するペレストロイカには追従しない意向を表明した。

 

しかしそれがあだとなった。

89年にポーランドから始まった民主化の動きが加速していった。

東欧革命の余波がルーマニアにも波及することを恐れたチャウシェスクは、これまでの姿勢とは一転して、

ソ連に軍事介入を頼んだのだった。しかしゴルバチョフは、恨みを返すが如く、

この要求をはねのけた。

チャウシェスクは国際的にも完全に孤立してしまったのだ。


ルーマニア革命といわれる一連の流れの発端はここからだ。

89年、ハンガリーとルーマニアの国境付近ティミショアラに住むハンガリー系の

テケシュ牧師がカナダのテレビ局を通じて、ルーマニアのハンガリー系住民の困窮ぶりを訴えた。

これに激怒したチャウシェスクはハンガリー国境を封鎖し、牧師を北部に追放しようとした。

とうとう堪忍袋の緒が切れた国民たちは牧師への同情から火が付き、巨大な抗議デモへと発展。

チャウシェスクも強気な態度を緩めるわけにはいかず、警察や治安部隊をティミショアラに派遣した。

そしてとうとう指示に従わないデモ隊を戦車やヘリコプターから無差別に発砲、武力で鎮圧させたのである。

89年、12月、

 

共産党本部にてチャウシェスクが自ら、国民へ演説を試みるも、民衆の激しいチャウシェスク退陣の怒声が響き渡り、演説は中断された。

深夜、反チャウシェスクデモに治安部隊が発砲。

ここから事態は急展開を繰り広げる。

 

国家非常事態宣言を発表するとともに、チャウシェスク大統領夫妻は自家用ヘリで逃亡。外では治安部隊と国民の銃撃戦が激化していった。

しかし、逃亡ヘリはすぐにとらえられ、不時着。あっというまに夫婦は拘束されたのである。

その裏では、国防大臣のミレア将軍が前日、自殺していた。なにやらチャウシェスクによる粛正だったとか。

このときから、国軍は政権側から翻り、市民の側に就いたのだった。もちろん、逃亡ヘリのパイロットも国民側に寝返っての転落劇である。

秘密警察の責任者はすぐさま逮捕された。両者はもはや戦う理由も、指揮系統も失い、やがて銃撃戦はおさまった。


逮捕された三日後、夫妻は軍裁判をかけられた。

ティミショアラの国民へ向けた無差別発砲(虐殺)と、国民を苦しめた罪という事で

死刑を宣告された。

25年政権を握ったチャウシェスク夫婦はたった55分の簡易裁判で死刑となるとは

なんとも運命の皮肉。

その数分後、

安全な場所へ移動するといわれて、外へ連れていく途中、

待ち構えていた射撃隊によって、

100発以上の弾丸を食らい、ハチの巣となり、夫婦ともども絶命したのだった。

24日、この一連の裁判から処刑までのショッキングな映像を、新政権下の手で、

見せしめとして、世界中に放送されたのである。

こうして地獄のチャウシェスク政権は幕を下ろし、

新たな時代へルーマニアは進みだしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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