3分でわかる!スラブと ロシアの語源「ルーシ」

 

東ヨーロッパにスラブ族が出現するまで、そこにはほかの種族が定住していて、東スラブ族は多くの他民族に囲まれながら生活していく。

その中に、ヴァイキングで有名な

北方の民族ノルマン族がいた。

 

8~9世紀末に武装したノルマン人部隊がヨーロッパの様々な国々へ交易と侵略の侵攻を繰り返した。彼らは東スラブ族の土地にも侵攻した。彼らは「ヴァリャーグからギリシャへの道」で活発な交易を営み、東スラブ族の土地で「自分たちの交易拠点」を設立してそこに住み着いた。

最初にノルマン族の襲来を受けたバルト海沿岸のフィン・ウゴル族は彼らを「ロウトス」(舟をこぐ人)と呼び、

そこから「ロースィ」「ルースィー」になった。フィン族に続いて、東スラブ族もこの呼び名を用いるようになった。

つまり、「ルースィー」とは東スラブ族のところに住み着いたノルマン族の一部である。スラブ族の隣に住みながらルースィー族は徐々に、当地の住民と交じり、血縁を結び、

言語や習慣を自分のものにした。やがて新たな一つの民族ができあがっていったのである。

 

879年、ルースィーの長が大軍団を率いて、キエフという町(現在はウクライナの首都)に遠征した。

先住民族と戦い、王族を追い払った。ここからキエフを中心とした南の国と、ノブゴロドを中心とした北の国が合併した結果、

ルーシと名付けられた国家が形成された。

ルーシの国に住む国民たちを統治するために、当時のキエフ・ルーシの国家元首ウラジーミル公は、軍事力だけに頼っては不可能なことを悟った。

そこで、ウラジーミル公はキリスト教の布教を利用した。キリスト教の受容は国家の連携を強め、国民の日常生活と習慣を変え、文化の発展を促していくのである。

これが東スラブのもっとも古い最初の国家であったため、歴史家は古代ロシア国家を

 

キエフ・ルーシと呼んでいる。

 

「ロシア」とは「自分たちこそが正当なルーシの後継者」という意味が含まれている。

 

 

13世紀ごろから、ルーシの地は、国境によって分けられた。

ルーシの北東部は、古代ルーシの文化や言葉を残しつつ、ボルガ沿岸、リトアニア、沿バルト海地方、そしてオルダとも多く接触しながらこれら諸民族のいくつかの風習を取り入れながら、独自の言語や文化を築き始めた。とくにオルダの影響が強く、統一的大ロシア民族体へと結合していった。

(この北東部のルーシが現在のロシアである。)

ルーシの南西部と西部地域の住民はポーランドやハンガリーの影響を多く受けた。

(この南西部がウクライナ。西部がベラルーシである。)

このようにしながら、大ルーシとしての習慣や文化や芸術、食事や服装、気質の特徴による差異が生じ始めた。

そして、かつての共通の古代ロシア民族から、

大ロシア(ロシア)

 

小ロシア(ウクライナ)

白ロシア(ベラルーシ)

の民族体に分かれていったのである。

(しかしこれは非常に長い期間によって形成されていったものだ。)

 


ちなみに白(はく)ロシアの由来は

 

13世紀から16世紀にかけてモンゴルの支配を受けていた時代に(タタールのくびき)

モンゴル人が中国から学んだ文化、すなわち、

「方角を色で呼ぶ方法(五行思想)」をルーシに持ち込んだ。

 

「赤ルーシ」(南部ルーシすなわち現在のウクライナ西部)、「白ルーシ」(西部ルーシすなわち現在のベラルーシ)、という名称が生まれ、

そのうちの白ルーシ(ベラルーシ)が国名として残ったと言われている。

 

なお

「白系(はっけい)ロシア」という言葉もあるが、

「白ロシア(ベラルーシ)」とは全く違う意味のものである。

白系ロシア人とは、ロシア革命後、国外に脱出、亡命した人のことをいう。共産主義「赤」(この場合、赤軍)に対する「白」で、

ウクライナ、ポーランド、ユダヤ系も多い。

世界の教科書シリーズ31ロシアの歴史上巻 吉田衆一監修著作より引用

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