【解説】オリガルヒ・ベレゾフスキーの人生

 

 

ソ連崩壊後(91年~) これまで鎖国同然だったロシアに、技術力が2~30年進んだ西側の商品が洪水のように流れ込んだ。強制的に民営化し、市場をいきなり全面開放したせいで、国内の企業は海外の企業に到底勝てるはずがなく、ばたばた倒産していった。おまけに、為替を自由化したのも悪かった。崩壊したばかりの国の通貨などに誰も価値を見出すわけはなく、結果、ハイパーインフレがおこってしまったのだ。

しかし、そんなぼろぼろのロシアに、国内では続々とビリオネアたちが現れた。

彼らは新興財閥オリガルヒ。

ハイパーインフレとなってしまったロシアは、IMF(国際通貨基金)から226億ドルを借りて、事なきを得たのだが、

IMFはそのかわりとして、ロシアに、より大規模な民営化を要求してきた。しかしそうはいってもこれまで社会主義国家だったロシアには私有財産も、民営企業も無い。

そこで政府は民営化を急ぐ一環として、

バウチャー(民営化証券)という、いわば国のもっていた財産を、引き換えできる券を、無料で配ったのだった。

大半の国民たちは、そのバウチャーという紙きれの価値が「大富豪への特急切符」だという事も知るはずもなく。

金融や経済の仕組みを理解していた少数の賢い者たちが、その価値を即座に見出し、知識なき愚民たちに、酒や食べ物などと交換にバウチャーを、超安値で買いあさっていったのである。

オリガルヒたちはこうしてのしあがっていった。

そのオリガルヒのトップこそが、

ボリス・アブラモビッチ・ベレゾフスキー。

石油会社社長。ロシア公共テレビ経営者、または最もエリツィン元大統領に近い、裏の政治力を握る。

「クレムリンのゴッドファーザー」の異名を持った男だ。


 

ベレゾフスキーは1946年モスクワに生まれた。

モスクワ林業技術大学卒業。応用数学博士。

ソ連時代の80年代には「ジーンズ」の生産販売のビジネスをして資金を貯めていった。(当時のソ連は西側とは交流を遮断していたため、まともなジーンズが無かった。)

ベレゾフスキーはきわめて知的で高い教育を受けていたが、危険を好む性格だった。オリガルヒの多くがそうであるように、彼はユダヤ人であり、

幼少期の頃から自分をよそ者と認識していた。彼らの誰もがそうであるように、特大の野心と際限のないエネルギーがあった。

数学で博士号をえていた彼は、

自動車の輸出入事業「ロゴバス」と、自動車修理サービス会社「アフトバス」を設立した。のちに、ロゴバスはドイツのメルセデスベンツの公認ディーラーになった。

 

 

 

90年代初頭。つまり、冒頭のバウチャーを安手で買いあさった彼は、それを元手に銀行業をはじめ、自動車ビジネスを支配し続け、大石油会社の一部を手に入れ、しまいには、ロシアの公共テレビや、この国の国民の90パーセントが視聴している「チャンネル1」を傘下に収め、「ロシア公共テレビORT」。を作り、同局の取り締まりとなった。

さらには、「日刊紙コメルサント」、「独立新聞」「ノーヴィエ・イズベスチャ」「週刊誌ブラスチ(権力)」「デェンギ(貨幣)」、ラジオ局「ナッシェ・ラジオ」とおあらゆるメディア局も手中に収め、

96年には、大手石油会社「シブネフチ」を買収。「統一銀行」「アウトバス銀行」も所有した。

自分の影響力を明らかに誇大視していた彼の欲望はとどまることを知らず、そのまま大統領のエリツィンの選挙運動にまで近づくようになった。

ベレゾは国中を行き来し、政治取引に熱を入れ、黒幕たちと掛け合いまとめ、チェチニアの和平を交渉したりと、

徐々に政界から注目を浴びるようになり、気がつけばエリツィンのお気に入り「ファミリー」の一員となり、とうとうロシアの陰の実力者とうたわれるようになったのである。

その後、二期目の大統領選挙では、オリガルヒのネットワークと資金と影響力を存分に駆使し、見事、エリツィンの再選を成功させた。そのご褒美に、ベレゾはエリツィンから、「ロシア安全保障会議副書記」に任命、

98年には、CIS(独立国家共同体)執行書記というポジションをもらえた。

しかし、心臓病を悪化させたエリツィンに、ファミリーの地位を脅かすライバル・プリマコフが出馬することとなった、ベレゾフキーは新たな傀儡大統領を必要とし、後継者探しに明け暮れるようになった。

オリガルヒの排除を狙ったプリマコフによってベレゾフスキーは窮地に追いやられた。


たくさんいた友人や知人たちは、すーっと、ベレゾから離れていった。そんな辛い状況の中、ベレゾの妻エレーナの誕生日が訪れたのだが、そこに運命の人物は現れたのだった。

当時FSB長官だった

ウラジーミル・プーチン その人である。

友人が集まらず、地味にお祝いしていた妻の誕生パーティーに、サプライズでプーチンはやってきたのである。ふたりは顔見知りではあったが、まだそれほど親しくもなかったにもかかわらず。

しかも特大のバラを抱えて。

「正直。すごくうれしいよ。ヴァロージャ。だが、いいのか?こんなことして、元KGB同士のプリマコフと敵対することになるんじゃないのか?」

とベレゾは涙を見せながら、プーチンに問いかけた。

「どうでもいいことです。私はあなたの友人だ。それを示したかった。とりわけ、他の人々にね。彼らはあなたを除外したいと思っているようだが、あなたが潔白であることを私は知っている。」

このプーチンの返答にベレゾのハートは撃ち抜かれた。こいつは信用できる、と。ベレゾは真剣にプーチンを次期大統領にすることを検討した。

「ヴァロージャ(ウラジーミルの愛称)。どうだい?大統領になってみたくはないか?」

と切り出した。

「私が?とんでもない。大統領なんて柄じゃない。そんなことを望んだことは一度もないですよ。」とプーチン。

「じゃあ、何が望みだ?なにになりたい?」

「私は・・」口ごもるプーチンはこう答えた。

 

「ベレゾ。私はあなたになりたい」

この回答にベレゾは、感動し、そして確信した。「この男はどんな苦境の時も裏切らない。変な野心も抱かない。傀儡大統領に必ずや就任させてみせる。」と。

その後のベレゾのプーチンを大統領までにのしあげるまでの詳しい過程は、

こちらの過去漫画をご覧ください。

 


さて、

大統領になったとたんにプーチンにオリガルヒの権力をぶんどられ、まさに飼い犬に手をかまれたベレゾ。しかしこれで終わるほど彼はしおらしい男ではない。

裏切り者のプーチンへの復讐心に燃え、虎視眈々と逆襲計画を練るのだった。

ベレゾは民間人でありながら、国営テレビのひとつ「ORT」の株の49%を所有し、しかも報道内容自体も支配していた。

このORTを使って、連日プーチンの批判報道を繰り返させるようになった。

そしてプーチンの大統領就任から3か月後の2000年8月12日。

ロシア原子力潜水艦クルスク沈没事故が起きた。

フィンランドの北方バレンツ海で事故が起こった直後、118人のうち、数10人は生存していたのに、救助の遅れで結局全員亡くなってしまったのだ。

この時、プーチンはゆったりソチで休暇中だった。

ベレゾはこれを絶好の好機とばかりに

ORTで、「クルスク乗組員家族全員が苦しむ映像」と「ソチで休暇を満喫するプーチンの映像」を交互に流していったのだ。

事故は12日に起きた。プーチンがモスクワに帰ったのは、一週間後の19日。

さすがに、相当の反発が国民から起き支持率は一気に下がった。

原因を作ったベレゾに対し堪忍袋が切れたプーチンは、

二人だけのひさかたぶりの会合を試みた。

「教えてくれ、ベレゾ。私にはわからない。どうしてこんなことをする?信じてもらえないかもしれないが、私はあなたの脱線をずいぶん大目に見てきたんだぞ。」

「選挙の後の俺たちの会話を忘れたのか?ヴァロージャ。俺はおまえに個人的な忠誠は誓わない、と。おまえはエリツィンのやり方を踏襲するといった。エリツィンはあんなんでも、自分を攻撃するジャーナリストを黙らせるようなことなんかしなかったよ。おまえはこのロシアをだめにしようとしているんだ。」

「笑わせるな。ベレゾ、あなたがロシアの事を想ったことなど一度だってないだろう。」

「そうか。あばよ。ヴァロージャ。」

「さようなら、ボリス・アブラモビッチ。(ベレゾのファーストネームとミドルネーム。この場合、「様」という意味になる)」

 

 

こうして二人は永遠に袂を分かったのだった。

 


ベレゾはその後、ロンドンに亡命。同時にイスラエルの市民権を取得。

チェチェンの英雄バサエフに資金援助。なおかつチェチェン軍事介入の闇を知るロシア連邦保安局(FSB)のアレクサンドル・リトビネンコと合流。二人はそこで親しくなり、

←(リトビネンコ)

リトビネンコの推薦でベレゾは、ロシアの安全保障上の文書を英国側に提供して英情報局秘密情報部(MI6)の職員になった。

その間、ロシアからの刺客が幾度もベレゾの命を狙いに来た。

ロンドンで元KGB要員とみられるロシア人ヒットマンが逮捕されたことで明るみに出たのだ。ロンドン中心部パークレーンにあるヒルトン・ホテルの寝室でベレゾを殺害する計画だったという。ヒットマンは旅行客を装い、ヒースロー空港からホテルへの移動の最中に銃を入手していた。しかし英防諜機関MI5と警察の対テロリスト班合わせて30人ほどが24時間態勢で男を監視下に置き、ベレゾがビジネスの会合で使う予定だった部屋に男が銃を携帯して現れたところを逮捕した。

 

ロンドンで逮捕された人物は、その24時間後には何の嫌疑をかけられることもなく、英国からモスクワに送還された。逮捕劇が目立たなかったのは、6月に就任したデビッド・ミリバンド外相の「英ロ間の緊張を緩和しようとする配慮」があったためとされる。

 

しかしMI5もMI6も、ベレゾはロシア政府の暗殺から保護すべき存在とは認識しているが、彼の絶え間ない反プーチン・キャンペーンと英国在住は頭の痛い問題でもあった。ベレゾに自由が許されている限り、ロシア政府は対テロ戦争に必要なインテリジェンスを英国に提供しない方針を打ち出していたからである。

さらには

かつての愛弟子であり、人気サッカー・クラブ、チェルシーのオーナーとして知られるロシアの大富豪アブラモビッチに石油会社の持ち分30億ポンド(約4270億円)の返還を求めた訴訟で、判事から「もともと信用に値しない証人」と見放されて完敗している。

おまけにグルジア人大富豪の未亡人や投資家と裁判で争ったこともあるが、いずれも敗訴。賠償金や弁護士報酬などは合計で1億4000万ポンドともささやかれた。

 

ロシア政府はベレゾの引き渡しをイギリス当局に求めた。この争いが契機となって、イギリスとロシアは相手国の外交官の追放合戦が行われ、英ロ関係は一時どん底近くにまで落ち込んだ。

 

徐々に仲間も恋人も寄り付かなくなり、ベレゾは生活に困窮していった。

所有する複数の豪邸を売り払い、米美術家アンディ・ウォーホルの版画「赤いレーニン」をオークションにかけるほど、資金繰りに窮していった。ベレゾは巨額の富を失いうつ状態になり、家に閉じこもり、誰とも話さずに引きこもりどうしようもない状態にまでおちいった。

とうとう宿敵だったプーチンに

「祖国ロシアに帰りたい」と許しを乞う手紙まで送った。

(しょっちゅう謝罪文を書こうとしているということを元妻のエレーナ・ゴルブノヴァに電話で話してさえもいたのだ。)

エレーナ曰く「彼に多くの有罪判決が言い渡されたとかそんなことはもうどうでも良かったの。これが最後の祖国に帰れるチャンスだと思っていたのよ。

だが結局プーチンからの返事はこなかった。

 

そしてついに

ベレゾは2013年、イギリスの元妻の家で首を吊って死亡した。

 

争った形跡はみられず、警察は自殺したと考えた。だが検死官は死因不明と記録した。ベレゾフスキーの友人やロシア人亡命者は自殺説には懐疑的だった。

ベレゾの知人は彼の死亡直後、ガーディアン紙に対して、

「ベレゾは殺されたと確信している。私はマスコミの報道とはかなり違う情報を知っている」と語った。

(その証言を裏付けるように、2008年にはベレゾのビジネスパートナーだったグルジアの富豪バドリ・パタルカツィシビリもロンドン南部で遺体で発見されている。死因は心臓発作とされたが、プーチンと敵対していたこと、グルジアでの政治キャリアが物議を醸してきたことなどから殺害されたとの疑いが浮上した)

 

 

 

 

 

 

 




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