帝政ロシアンボンバ(VSオスマン帝国)

 

 

実権を握ったピョートルの最初の対外政策。それは、依然としてロシアの南部を脅かし、海への進出を阻んでいたクリミア・タタールとその宗主国オスマントルコの排除だった。

1695年はじめ、ピョートルはアゾフ遠征に出発した。

だがこの遠征は、要塞を包囲したもののトルコ軍の補給を断つことができず、かつ、陸と海から挟み撃ちにされ、失敗に終わった。

ロシアの軍隊は当時一隻の軍艦もも持っていなかったのである。

さらに投入された軍隊もその指揮官の間の統一を欠いており、地下に坑道を掘り要塞を落とすという斬新な試みも功を奏さず、クリミアタタールの騎兵隊に襲われるなど、著しい被害をこうむり、引き揚げを余儀なくされたのであった。

だが、遠征の失敗はピョートルを落胆させなかった。

直ちに彼は新しい遠征の準備に入った。貴族会議はピョートルの指示により「海上の船」を建造する、という歴史的決定を下した。こうしてドン川中流にあるヴォロネジの町では軍艦の建造が始まったのである。アルハンゲリスクで越冬していた外国人をふくむ多くの技術者がここに集められ、造船の作業に従事した。こうした結果、1696年4月には、ロシア最初のガレー船37隻が建造された。同時に伝統的な平底川船1300隻も新しく作られた。

4月末、ロシア軍はふたたびアゾフ遠征に出発した。新しい海軍を指揮したのは、ピョートルお気に入りのスイス人、フランツ・レフォルトであった。

軍艦の投入はこの度の遠征の成功を決定的なものにした。要塞に横付けされいたトルコの軍艦が一部は破壊され、他は撤退を余儀なくされた。

海上から封鎖され補給を断たれた要塞は二か月の包囲ののち七月半ばに陥落した。アゾフはロシアの要塞して改造された。

ピョートルのアゾフ遠征はこうして初期の目的を達成し、凱旋軍を迎えたモスクワでは大掛かりな祝典が催された。

 

山川出版社 「世界歴史大系ロシア史2-18~19世紀」より引用

 

 

 

 

 

 

 




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