帝政ロシアンボンバ (プガチョフの乱)


 

プガチョフは、1742年ころ、ドン川の下流沿いのジモヴェイスカヤ村に生まれたドン・コサックであった。読み書きは出来なかったが物事の呑み込みが早く、軍隊瀬克の経験もある勇敢なコサックであった彼が人口約一万人のヤイク・カザークの町に現れたのは1773年の夏であった。

プガチョフは、町に入ると自分をピョートル三世(エカチェリーナの亡き夫)と名乗り、ヤイクの人々に、失われた自由の回復を約束したのである。明らかに彼は、カザークの不満はもとより、ウクライナやヴォルガ河流域で根強く流布していた「皇帝は生きている」という噂を知っていた。こうして彼は、「良きツァーリのための」正義のための戦いとして人々に提示したのである。

プガチョフを慕う軍団は日に日に膨れ上がっていった。

これに対して、エカチェリーナ政府は、反乱が始まって一か月後、「故ピョートル三世の名を借りた、無思慮な人々を堕落と破滅へと導く悪人」を非難する布告を出す、それを教会で読み上げた。

プガチョフの軍団と政府軍の攻防において中心となったのは、ロシア島南部におけるツァーリ政府の砦オレンブルクであった。約三千人と二十門の大砲を持つプガチョフの軍団によってオレンブルクの包囲が始まり、日を追うごとに反乱軍は増強された。周囲の町や要塞との連絡を絶たれたこの町は苦境に立たされた。

だが、8月末のツァーリツィンの戦いにおいて、プガチョフの軍団は全滅した。そして、ついに仲間のコサックの手によってとらえられて、政府軍に引き渡された。

翌1775年1月、プガチョフはモスクワで処刑された。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です