3分でわかるアレクサンドル一世とナポレオン戦争

話はアレクサンドルの父、パーヴェルと祖母エカチェリーナの話からさかのぼろう。

 

1796年 偉大なるロシア皇帝エカチェリーナ二世は、脳卒中のため、67歳で急死した。かわりに長男であり皇太子であったパーヴェルが即位した。

 

 

ふりかえれば、パーヴェルは出生後すぐにエカチェリーナの姑の女帝エリザヴェータに引き取られ養育されていた。この引き裂かれた状態から、エカチェリーナとパーヴェルの母子の関係は他人同然、いやそれどころか侮蔑の対象として、長く冷え切っていた。

1761年、女帝エリザヴェータが死去しピョートル3世(エカチェリーナの夫)が皇帝として即位するとエカチェリーナとパーヴェルの関係はやや好転するが、半年後クーデターでピョートル三世から、エカチェリーナ二世が皇帝に即位すると、再び、パーヴェルはかわいそうな父ピョートル三世に同情し、不貞な母エカチェリーナ二世を憎悪するようになった。

そのうえ、女帝となったエカチェリーナは、パーヴェルの長男アレクサンドルを姑エリザヴェータよろしく、早くから自分の手元に置いて養育していた。息子であるパーヴェルの能力と性格が皇帝に適さないと見抜き、かわりに孫のアレクサンドルを自分の後継者にしようと決めていたからであった。

しかしエカチェリーナが亡くなると、パーヴェルはただちに、母の寵臣たちを追放し、母の政策を覆していった。そして、戴冠式の日に、「帝位継承法」を公布した。

ピョートル大帝以来、皇帝の遺言によって次の帝が決定されていた習慣を廃止し、男系の男子による、継承順位の原則を決めたのである。これによって、以後ロシアでは女帝が即位することはなくなった。

宮廷からも母の時代のフランス的な雰囲気は一掃され、パーヴェルの気まぐれによる官僚の更迭も頻繁に行われた。猜疑心も強く、皇帝の家族まで不安を感じる状態にあった。このような恐怖政治は国民の間に不満と反発を高めた。特に軍役義務の復活に対する貴族層の不満は強かった。

パーヴェルの気まぐれは、外交の面でさらにはっきりと表れた。この時代は、フランス革命とナポレオン戦争による動乱期であった。にも関わらず、パーヴェルの外交方針は、親イギリスから親フランスに大きく転換していたのであった。これにより、貴族の間の親イギリス感情を刺激しただけではなく、穀物輸出と高級消費財の輸入に頼る貴族層を決定的に反パーヴェル側に押しやったのである。

イギリスも艦隊をバルト海に派遣し、反パーヴェル派の動きを支持。やがて、ペテルブルク総督バーレン伯などが計画の中心となり、

1801年3月11日から12日にかけての夜、数十名の近衛連帯の将校によって、皇帝パーヴェルはあわれ、自分の寝室にて、絞殺された。

脳卒中による急死と公表されたが、皇太子アレクサンドルが事前に計画を知っていたことは確実である。


 

パーヴェルの急死とアレクサンドルの即位は宮廷サークルや首都の貴族層の間で、熱狂的に歓迎された。しかし、アレクサンドルの人柄については、あまりかんばしいものではなかった。

立派な資質を持つが、不決断、無気力、ハムレット的、謎の君主、支配者としては弱すぎ、被支配者としては強すぎる、といった意味の評価が多い。

ナポレオンからは、日和見的な策士などと評されていた。

しかしながら、彼の複雑な性格は、祖母エカチェリーナの教育方針によって決定されたものが大きい。

幼少期には、家庭教師に、啓蒙主義者ラアプルから、モンテスキューやルソーなどの作品で教育を受けた。

そのうえ、アレクサンドルはロシア語の教育を十分に受けなかったため、生涯を通じて、複雑な問題について、ロシア語で込み入った会話を続けることができなかった。

また、彼は祖母の意向によって、16歳にもならぬ若さで結婚させられた。そして優雅に洗練された祖母の宮殿のほか、定期的に父パーヴェルの粗野な兵営式の宮殿にも宿泊しなければならなかった。彼の性格が複雑になったのも当然といえよう。


アレクサンドルは即位後、ナポレオン時代の世界的大激動に大国の一つとして巻き込まれざるをえなくなった。

まずはイギリス、フランスと中立の立場をとった条約を結ぼうと試みたが、両国とも、ロシアを味方に引き込もうとした。

やがてフランスとの関係は、ナポレオンがフランス王党派の亡命者のロシアからの追放を要求し、ロシア側がナポレオンによる王党派の処刑に抗議したことなどから、次第に悪化し1804年ナポレオンが皇帝になると両国は国交を断絶した。

1805年ロシアはイギリス、オーストリアとともに第三次対仏大同盟を結んだ。けれども、アレクサンドルはオーストリアとともに、ナポレオンと戦うが、大敗。

 

わずかな休戦ののち次に、ロシアはプロイセンと同盟を組み、ナポレオン軍と再び戦うも、またしても敗戦。

これによってロシアは財政難、軍需品不足に加え、しかも同時期、ペルシャ、トルコとも戦っていたため、ナポレオンとの講和にやむなく傾き、

1807年、ネマン河畔のティルジットで講和の折衡がおこなわれた。アレクサンドルとナポレオンは二人だけで、川に浮かぶイカダの上で話し合い、結果、テルジット条約が成立した。

(この時、アレクサンドルがナポレオンにロシア式友愛の挨拶として、突然、キスし、ナポレオンと周囲の人間たちにドン引きされたことはあまりに有名である)

 

その結果、ロシアのヨーロッパ北部・南東部における行動の自由が承認されたことで、ロシアはペルシャとの戦争に勝利し、1813年、グルジア、アゼルバイジャンの一部を併合し、1806年からのトルコ戦争にも勝って、1812年ベッサラビアを併合し、またスウェーデンとも戦って、フィンランドを併合することに成功した。

 


けれども、ロシアはティルジット条約によって1806年以来、ナポレオンがヨーロッパ諸国に強制した大陸封鎖(イギリスとのトラファルガー沖の海戦に敗れた報復として、ナポレオンが、ヨーロッパ大陸諸国とイギリスとの通商断絶を図って出した勅令。ヨーロッパ諸国の経済を窮迫させた)

に参加しなければならなくなった。

イギリスとの断交は第一次産品の輸出イギリスからの工業製品、植民地物産(コーヒー、砂糖、綿花など)の輸入が多かったロシアの貿易に深刻な打撃を与えた。戦費の負担と相まって、財政の破綻とインフレをひきおこし、貴族や商人の不満は増大し、ロシア国内の反フランス感情は強くなっていった。

 

一年後、アレクサンドルは、エルフルトでナポレオンと会談し両国の同盟を更新したが、フランスとの関係は冷却していた。

しかも、ナポレオンはアレクサンドルの二人の妹のどちらかと結婚したいという意向を示したが、アレクサンドルはやんわりと拒否した。

その後、ナポレオンはオーストリアの皇女と結婚し、オルデンブルク公国を併合した。そのうえ、ナポレオンは、ロシアにイギリスとの貿易禁止に一層厳しい措置をとるようにせまったが、アレクサンドルはこれに応じず。

そしていよいよ、ナポレオンは1812年、50~60万の大遠征軍をロシア国境に集結させた。


ロシア側には広大な国土、悪い道路、厳しい気候を防衛に利用しようという目論見が開戦前からあったのだが、数的に劣勢なロシア軍はナポレオン軍に圧倒され、結果的に後退作戦をとらざるを得なくなった。

だが、ナポレオンはモスクワへの進撃を続けるか否か迷い、アレクサンドルに講和の呼びかけも行ったが、アレクサンドルは無視した。この間、ロシア国民の間に、フランスによる侵略に対する祖国防衛意識が高まっていたのだった。

やがて国民から人気の高い老将軍ミハイル・クトゥ-ゾフが、世論の支持によって現役に復帰し、総司令官に任命された。彼の就任は全軍の志気を一挙に高めたという。

その二週間後、ボロディノの会戦により、ナポレオン軍はクトゥーゾフたちによって死闘を決した。およそ死傷者数はロシア軍四万以上。ナポレオン軍は約三万以上とされる。


クトゥーゾフは、「モスクワを失ってもロシアを失うわけではない」と強硬に主張し、モスクワから、戦略的撤退を試みた。

ロシア軍のモスクワ撤退に際し、翌年9月14日、ナポレオンはモスクワに入った。

しかし、ナポレオンは驚愕。モスクワの町は、ネコの子一匹いない、もぬけの殻なのだった。

すでに20万のモスクワ市民は残らず全員、町から離れていたのである。

そして、そこで起きたのが、モスクワの謎の大火である。(クトゥーゾフによる焦土戦術)

ナポレオン軍を巻き込んだ、モスクワの町の大火事は、なんと一週間も続いた。これにより、ナポレオンが期待したモスクワの食料や住居はすべて失われてしまったのである。

そのうえ、クトゥーゾフが南方からモスクワを包囲し、物資の供給を絶ったため、ナポレオン軍は苦境に立たされた。

ナポレオンは3回にわたって、アレクサンドルに講和を呼びかけたが、ロシア側はまったく動かなかった。

そのうちパリの情勢不安、迫りくる飢えと寒さを懸念したナポレオンは、10月19日モスクワからの撤退を軍に命じた。この時、ナポレオン軍は約10万人に減っていた。

しかしこれだけではロシアは済まさない。策略家のクトゥーゾフは、ロシア軍がモスクワから南東へ向かうリャザン街道へと撤退する、と装い、途中で西進しナポレオン軍の退路を閉鎖していったのである。

食料の補給を現地調達で予定していたナポレオン軍であったが、祖国への愛と反フランス思想が広まったロシアの農民たちによって、馬の飼料の提供を拒否された。

国境を越えた数日後に早くも疲労と飢えで倒れる馬が続出した。馬は当時の戦闘には不可欠で、馬無しの状態では、騎兵はもちろん、

砲兵も大砲を捨てざるを得ず、物資の輸送も不可能であった。

兵士の飢えも同時に始まり、疫病が蔓延しても医療サービスは無く、道路は劣悪。戦況を伝える電信もないこの時代、このような大軍を動かすことはたとえナポレオンであっても、不可能であった。

 

そのうえ往路の戦闘と、略奪でナポレオン軍はさらに、10万人から3万人へと激減していった。

 

 

この戦争の失敗の原因は、ナポレオンの自信過剰による戦線のひろげすぎにあったと考えられる。そのせいで彼の没落の主要な原因を作り、いやそれだけでなく結果的にこのロシア遠征は19世紀のヨーロッパ史の運命を左右する重大な事件となった。


一方、

ナポレオン軍を撤退させたアレクサンドルは、ヨーロッパの解放者としてリーダーシップを発揮したいという野心に駆られた。

1813年、ロシアはプロイセンと同盟を組み、プロイセンは3月フランスに宣戦した。6月、イギリス軍がスペインで、フランス軍を撃破したとの報をうけ、8月にはオーストリアもこの同盟に加わった。三国の連合軍が10月ライプツィヒでナポレオン軍を破り、翌3月に、パリは無抵抗で連合軍に占領された。

アレクサンドルのイニシアチブにより、平和条約が締結され、戦後処理のためのヨーロッパ会議がウィーンでひらかれた。

こうして、長く続いたナポレオンとの闘いはロシアの勝利によって終わったのである。


さて、アレクサンドルの、晩年はというと。

病弱な皇后の保養のため、南ロシアを旅行していたが、1825年アゾフ海沿岸地で急死した。48歳であった。

その死があまりに突然のことだったので様々な噂や臆説が流れた。(その後、アレクサンドルが生き残っていた伝説まで流れる)

 

 

アレクサンドルには、子供がなかったので、帝位継承法により、次男のコンスタンチンが皇帝になると考えられていたが、彼は当時ポーランド総督、軍事司令官でワルシャワに住んでいたこともあり、継承権を放棄し、弟の(三男)ニコライ一世に、権利が譲られたのである。

こうして、ニコライ一世が新ツァーリとなり、アレクサンドル時代のロシアは終わったのであった。

 

山川出版社「世界歴史大系ロシア史2」より引用

 

 

 

以上であります。

ここまで読み終わって、もう一度こちらの↓

 

「帝政ロシアンボンバ・アレクサンドル1世編」

を読み返すと印象がまたかわるかもしれませんよ。

 

 

 

 

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